世界一周181日目〜サラエボトンネル

こんにちは。トモミです。

 

この日はサラエボトンネルミュージアムを見学しようと出かけたのですが…

 

なかなか辿り着けないミュージアム

路線バス30分、徒歩30分の予定だったのですが、

途中でまさかのルート変更そしてバス停車。

 

キョトンとしていたら英語が堪能な乗客が

“この先で事故があって通れないから降りないといけないのよ”

とのこと。

 

ええっ!

そもそも不便な場所にあるのに変な所で停車…

調べて見たら徒歩でまだ1時間もかかる…!!!

 

そしてジリジリ照りつける太陽…暑い…

 

周りは住宅街…どこだここ…

よく見ると砲撃の跡が残っているし…

むしろバスに乗らずにいた方がタクシーやらトラムやら選択肢があったのですが…

仕方ないのでとりあえず歩くことに。

 

サラエボ冬季オリンピックの時のマークも途中で見かけたりしつつ、

途中でようやく発見したタクシーに驚きの値段をふっかけられ…

またしばらく歩いた後に比較的親切な価格でタクシーに乗ることができ…

到着。

もちろん汗だく。

 

空港の裏手にあるので空港からも歩いて行くには大変なサラエボトンネル。

タクシーかレンタカーでのアクセスがオススメのようですね…(遠い目)

 

サラエボトンネル

さて、必死の思いで何とかたどり着いたミュージアムはこちら。

はい。です。

 

これは事前情報で聞いてはいたのですが、

農家の家らしき住宅地の奥に登場するのがこのミュージアム。

 

戦いの跡がたくさん残されています。

さて、サラエボにあるトンネルに何でそんなに興味があるの?

と思う方もいるかと思いますが、

ボスニア紛争中に重要な役割を果たし、サラエボ市民の希望の光でもあったトンネル。

 

まずは背景からご紹介しましょう…

 

ベルギーの欧州歴史博物館でも全く同じ地図を見たのですが、

ボスニア紛争中の陣営は以下の通り。

サラエボはセルビア軍陣営にほぼ四方を囲まれている状況。

 

上の図では北が下になっていて、少しかすれてしまっているので

もう少しわかりやすい図がこちら。

サラエボは完全に陸の孤島状態。

そして南側の陣営との間にはUNのマーク、つまり国連マークが。

 

サラエボ市内の悲惨な状況を打開しようと、

国際空港を国連の航空機のために解放したエリア。

 

その時は国連がいなければ食料も乏しく、餓死するか攻撃されて死ぬか…といった状況。

ライフラインは全て閉ざされて、街中にはスナイパーが紛れ込んでいるという恐怖との戦い。

道端にはスナイパーの犠牲となった遺体がしばらく放置されることもあったのだとか…。

 

命がけのダッシュをしながら生き延びる日々…

砲撃も激しかったため、人々はできるだけ地上階もしくは地下に移住。

 

ガラスが割れると危ないため、国連から配給されたプラスチック製の窓をはめ込み

寒さを凌ぐためにできるだけ小さい部屋で手作りのストーブを炊きつつ生活をしていたのだとか。

ちなみにサラエボでインタビューをしたイルヴァナさんは

配給された食事は主に米と豆だったので、今でも米と豆を使った料理を見ると

戦争の記憶が蘇るのでもう食べる気がしない、と言っていました。

 

ちなみに、サラエボを実際に訪れてわかったのですが

セルビア陣営が敷かれたのはサラエボ市内を一望できるような山の上。

 

サラエボは周囲をぐるりと山に囲まれているため、

そこに敵陣があって戦車が並んでいるというのは

絶体絶命の状況。

 

脱出口が閉じられそうになる場所に国連の存在。

 

そんな状況で作られたのがサラエボ・トンネル

何と、国連が管理する空港の下を掘って反対側への抜け穴を作ってしまったのです。

上の写真でいうと、

光の線が描かれている部分がトンネルが通っていた箇所。

 

ドブリニヤとブタミールという地域を結んだトンネルということで

頭文字をとってD-Bトンネルとも呼ばれています。

 

双方ともに一般市民の敷地内から掘り進め、

全長800メートルもの距離を4ヶ月で完成させます。

完成したトンネルは

サラエボ市内に残る35万人もの市民に市外から医療品や食料を届け、

怪我人や避難民が市外へ逃げて行くための道。

高さは1.6メートル、幅は1メートル。

現在はほとんどが洪水の影響で崩れてしまい、入ることができませんが

最初の25メートルだけ一般公開されています。

階段を降りて行くと…

トロッコのレールが敷かれた道と

木の柱で支えられた壁面と天井…

私の身長は155センチなので屈まずに歩けるかと思いきや、

 

高さにはムラがあるので基本的に小さい子供でなければ

屈んだ姿勢で歩くしかない道。

屈んだ体制で荷物も背負って800メートルも歩くのはキツイですね…

 

雨の日は途中が水浸しになっていて、

酸素も薄く、

電気が切れて真っ暗になることも多く

何よりも入口でも出口でも砲撃を受けることがあって

生き延びられる保証も無い中、屈んだ姿勢で歩き続けたそうです。

 

それでも人々は自由を求めてトンネルを通って行ったのだそうです。

実際のトンネルを通った人やその家族の体験談が残されていたのですが、

人々が様々な思いを抱えながら通っていたことがわかりました。

 

“私の父は一人の女の子を訪問するためにトンネルを使用した。

現在ではその女の子が私の母である。”

“私は当時小さい子供で、憎しみとか恐れとかよくわからなかったからワクワクしていたんだ。

両親も一緒にいたからトンネルを通ることは冒険のような気分だった。”

 

“そこには終わりがなかった。

サラエボの”扉”は忘れられることは無いであろう。

その扉は全ての人に開かれていた。

なぜなら、

全ての人が人間だから。

全ての人が殺害を嫌っていたから。

トンネルは

主要なライフラインが血と涙で浸かったサラエボの中心で

常に命と死の間にある扉を意味していた。”

“トンネルを通っている間、悪い事を考えないために

足音を聴きながらリズムについて考えていたんだ。

大きな音も聞こえたけれど、美しいメロディーもそこから作り出すことができた。

口笛を吹き始めて、歩き続けたんだ。それは助けになったよ。”

 

サラエボトンネルを守った家族

ボスニアに平和がもたらされ、

洪水の影響で少しずつ崩壊して行ったサラエボトンネル。

 

消えゆくトンネルを後世に伝えようとミュージアムを作ったのが

コラルファミリー。

 

元々は彼らの家だった場所がトンネルの入り口の一つとして使用されており、

終戦後に家に戻った一家。

 

人道支援による家の再建を断り、

何とトンネルのために自身の家を修理。

当時の生活の様子がわかるものや、

トンネルを掘った際に使用されたものなどを探し集め

現在のミュージアムを作り上げたのだとか。

 

戦後の生活も決して豊かでは無かった中で

ミュージアムを作ったコラルファミリー。

 

初代ボスニア大統領も訪問し、感謝の意を伝えています。

 

多くの人の命を救い、同時に命が奪われた場所でもあるトンネルの入り口。

彼らはどのような思いで作り上げて行ったのでしょうか…?

 

一市民として戦争の悲惨さを伝えていくことが可能であること、

その影響力を学ぶことができたサラエボトンネルなのでした。

 

 

おまけ エッフェルさんが作った橋?

帰りは別のルートで無事に帰れた私たち。

気になった橋があったので近づいてみると…

何とエッフェル塔で有名なエッフェルさんが若い頃にデザインした橋なのだとか。

 

そして真ん中に可愛らしいモニュメントがあったのでパチリ。

サラエボトンネル、いろんな意味で濃い時間でした!

 

つづく。

 

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