さて、今回はマレーシア植民地時代の歴史の話。
まず、最初にやって来たのはポルトガルだった。
そもそもスペインとポルトガルの間で、身勝手にも「世界を半分に分ける」約束がされており、スペインは西(北米・南米)へ、ポルトガルは東(アジア)へ向かったのだった。
その時のルートがこちら。
まず南アフリカの喜望峰、次のインドのゴアを経由してから東南アジアへ。
この時点での目的は、征服や植民地化ではなく、「スパイス」の買い付けだった。
当時、スパイスは超高額で取引されており、金塊を持って帰るのと同じ価値があったのである。
逆に言えば、土地や労働力は魅力的なものではなく、「国」を支配して経営しようという野心はなかった。
事実、ポルトガルは、武力で制圧した後も港付近の局所的な支配にとどまっている。
ただし、有利な交易権のために不平等条約が結ばれており、交易に関してはポルトガルの「やりたい放題」だった。
これは日本の黒船以降の様々な不平等条約と同じ。
当時の再現ジオラマ。
マラッカの人にはどのように映ったのだろうか。
1511年にポルトガルが制圧したのち、その支配は1641年まで100年以上続いた。
その際に、マラッカに建てた要塞の跡は今も残っている。
ポルトガルの支配の中で、マラッカもただ無抵抗だったわけではない。
反乱は数人のスルタン(アラビア語で「支配者」、実質的に王様と同等の存在)を中心に、時にオランダの艦隊の応援を借りて反乱が展開された。
オランダが応援していたのは、ポルトガルの権益を奪いたかったからに他ならない。
最終的には1641年にオランダがポルトガルを追い出すことに成功する。
オランダの支配は1641-1824の約200年と、ポルトガルよりもかなり長い。
ポルトガルへの反乱は諸島のスルタンたちを中心に展開されたが、オランダへの反乱は民衆レベルで多発した。
ただし、どれも鎮圧され、次の宗主イギリスが来るまでオランダを追い出すことはできなかった。
イギリスが支配を得たのは、マラッカ、ペナン、シンガポールの3都市で、どれも地政学的に貿易の上で要所となる場所だった。
1784年、この時点でイギリスはすでにインドを領地に入れており、東インド会社を通じて、まずペナン島の割譲を要求した。
一度は拒否したものの、この頃マラッカはシャム(現在のタイ)とビルマ(現在のミャンマー)からの攻撃に悩まされており、万が一交戦状態になった時の防衛支援を条件に翌年ペナン島を割譲した。
ちなみに、現在のペナン島は世界遺産となっており、マレーシアきっての観光地の一つでもある。
マラッカは1795-1818年の約20年イギリスに占領されたのち、1818-1824の6年間再びオランダの占領下に戻っている。
その後、1824からはイギリスとオランダで協定を結び、マラッカはイギリスに、スマトラ島(現在のインドネシアの島の一つ)はオランダに、という具合に分け合った。
この時からマラッカは英領マラヤと呼ばれるようになる。
最後に、シンガポールが1819年からイギリスの手中に入っている。
植民地時代後半は戦争のために必要な経済力捻出のために土地と労働力が重要視されるようになる。
「貿易で儲かるもの」「自国で必要な食料や物資」だけを作り、逆にそうでないものを排除するように植民地の産業構造が強制的に変えられた。
このことをモノカルチャー(直訳で、「単一の文化」)と言うが、現代でもこの時代の産業構造から抜け出せずに苦戦している国は多い。
マレーシアの場合、主要産業の一つとしてゴムの木の栽培が大々的に行われた。
また、栽培の土地として今まで他のものを作っていた土地が没収され、食料難や物資不足になった。
ちなみに、日本ではほとんど目にすることはないゴムの木だが、このように木に傷をつけ、搾取した樹液によって生産される。
そして次にマラッカ(マラヤ)を待っていたのは、日本軍の占領だった。
背景として、前述した通り、大航海時代(16世紀頃)から始まったヨーロッパ諸国のアジア進出は徐々に、拡張政策のもとに植民地へと姿を変えていった。
この頃、日本は危機感を感じ、いち早く近代化に成功していた(明治維新)。
ヨーロッパに加え、スペインとの戦争の「戦利品」としてフィリピンを手に入れたアメリカもアジアへの野心明確にし、欧米諸国の勢いは止まらなかった。
このまま中国と東南アジアが植民地化した場合、日本は地理的に包囲される形となり、いよいよ植民地化を免れないという状況になる。
それを恐れた日本は欧米諸国と同様、遅れて拡張政策に乗り出した。
最初は、台湾、朝鮮半島併合、そして満州(現在の中国北東部)と順調に領地を増やしていったが、これは欧米諸国から新たな脅威として認識された。
理由として、将来の新たな敵国(帝国)になる可能性に加え、特に日露戦争で初めてアジア人が欧米人を撃退したことがアジアの植民地の民族蜂起を刺激したことがあった。
それまでは他国の戦争への不介入主義を貫いていたアメリカだったが、重い腰を上げ中国を支援する形になる。
その一つとして、日本への貿易封鎖を始めた。
それまで、アメリカからの大量の軍事物資を頼りにしていた日本は物資不足のジリ貧状態となり、新たな資源を求めて東南アジア占領を目指した(南下政策)。
現在の中国南部からベトナム、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシア…という形で北から南へ、次々と占領していったのである。
(タイは占領はされなかったものの、自国内の日本軍の通行を許可するという形で、事実上日本に屈し、支援する形となった)
ちなみに、東南アジアの各地域を日本軍がいとも簡単に落とせた理由として、ヨーロッパ本土での戦闘が激化しており、各宗主国がアジアでの植民地防衛のために戦力を割ける状況ではなかったことが挙げられる。
主にナチスドイツが、ものすごい勢いでヨーロッパ各地へ領土を広げているその隙を狙った戦略だった。
しかし、この地域がアメリカの同盟国であったフランス、イギリスの植民地であったこと、また日本が「敵陣」であるドイツ・イタリアと同盟を結んだことからアメリカとの開戦を避けられない状況になり、同時期にパールハーバー攻撃へと繋がっていくのである。
結果はもう周知の通り、アメリカ単体相手ですら国力で到底勝てない日本が、盤面をアジア、太平洋と広げていき過ぎたことになり各地で惨敗、同盟国のドイツ・イタリアの支援も得られないまま、最終的には原爆投下を持って無条件降伏となる。
日本の降伏後、日本はアジア各地の奪った植民地をもともとの宗主国に「返還」する形となり、マラヤは再びイギリスの傘下に戻る。
ここから、独立を求めたマラヤとイギリスの戦いが始まるのだが、それは次の記事で書こうと思う。
つづく
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