世界一周251日目〜脱出不可能の流刑植民地ポートアーサー

こんにちはユウキです。

 

今日の目的地はタスマニア島の世界遺産、ポートーアーサー

 

この日のハイライト

概要

はじめに、ポートアーサーについて簡単に解説。

 

ポート・アーサー(Port Arthur)は、オーストラリア・タスマニア州のタスマン半島に位置する小規模の街である。かつては、国内最大の流刑植民地があり、2010年、UNESCOの世界遺産に、「オーストラリアの囚人遺跡群」の1つとして登録された。-wikipedia

 

そもそも、オーストラリアという国自体が、もともとイギリスの植民地だったことは広く知られているのだが、どのような人が開拓者に選ばれたかはあまり知られていない。

 

実はオーストラリア、旧称ニュー・サウス・ウェールズ(New South Wales)はイギリス本国で犯罪者となった人の流刑地でもあったのだ。

つまり、オーストラリアを開拓したのは、主に犯罪者たちで、加えて少数の監督者たちということになる。

 

実際、開拓者として最初にやって来た船の乗員約1000人のうち、3/4の750人が犯罪者とその家族、残り250人が軍人とその家族だった。

 

しかし、ここで注意しておきたいのは、時代背景だ。

 

イギリスがオーストラリア大陸植民地化に着手した18世紀半ば、産業革命による失業者をはじめ犯罪者が激増した。

悪事を正当化することはできないが、職を失い、生きるために仕方なく犯罪に手を染めるものも少なくなかったという。

つまり、「犯罪者」と一言で言っても、重罪人ばかりではなかったのである。

 

そういった中で、イギリス国内の刑務所は満員状態(!)になってしまい、加えてアメリカが独立してしまう。

こう言った中で新たな流刑地、そして植民地としてオーストラリア大陸が注目された。

 

これより以前、約100年前からイギリスはオーストラリア大陸の所有を「宣言」していたのだが、原住民アボリジニの執拗は抵抗に頭を悩ませており、なかなか開拓を進められずにいた。

 

そんなわけで「血を流すことが確実視」される土地を開拓したいと思う有志は誰も現れず、犯罪者たちが刑として開拓者に任命されたのだった。

 

オーストラリアでは東海岸を中心に着実に開拓が進む中、オーストラリア内でも2度目の犯罪を犯すものが出てきた。

そういう人たちを収監したのが、ここポートアーサーである。

 

つまり、流刑地の中にさらに刑務所がある感覚だ。

 

通常よりも厳重な警戒体制が敷かれたポートアーサーは、地形的な理由も合わせ「脱出不可能の流刑植民地」と言われた。

 

しかし、約100年たった1800年代中期には、収監される囚人の数が徐々に減り、1877年には完全に廃止された。

 

ポートアーサー

 

さて、早速そのポートアーサーを見ていこう。

「ポート(港)」と名前が付くくらいなので、海に面してはいるのだが、規模感は「港」ではなく、立派な「町」である。

 

縮図模型。

刑務所以外にも様々な目的の建物があったことがわかる。

 

 

まずは核とも言える、刑務所がこちら。

 

説明書き。

 

なになに、訳すると、

 

もともとは1845年に製粉所として建設された。

1854年に刑務所となることが決まり、1857年から実際に使用された。

2階建で136の部屋の部屋とダイニングホール、13000の本を有する図書館とチャペルまであった。

1877年には刑務所としての役目を終え、その20年後の1897には火災により大半が失われ、現在は復旧後の姿だそうだ。

 

現在は外の壁しか残されていない。

 

刑務所の前はだだっぴろい広場になっており、刑務所以外にも土地の広さを伺わせる。

 

ここから少し歩くと、教会があった。

刑務所の中のそれとは別のものだ。

収監されていない人が礼拝に来ていたのだろう。

 

 

かなりの人数が来ていたのだろう、中はかなり広い。

 

 

次は見張り台。

ただの刑務所ではなく、開拓を目的としたものだったので、屋外作業の監督がいた。

 

 

見張り台の後ろにも街が広がっている。

こちらは主に農耕地や、軍人と家族の家が建てられていたエリアだ。

 

こちらはアイルランド独立の反乱に失敗し、ここに送られて来たウィリアム・スミス・オブライエンという人の家。

このような人も送られて来たのが興味深い。

 

説明書き。

反逆罪で最初は死刑を言い渡されたオブライエンだったが、最終的には刑を延期され、共に反乱のリーダーとなった6人と共にタスマニアに送られることになった。

 

元々は馬小屋として設計された建物だったが、オブライエンのために改築され2部屋になり、その後さらに増築された部分は役人の部屋や一時的に軍病院としても使用された。

 

 

オブライエン自身も快適な家だったと記しているとおり、質素だが不便のなさそうな家である。

 

 

部屋は2つのみで、決して広くはないが、オブライエンは囚人ではなく開拓者として普通の生活を送ることができた。

 

彼以外にも、多くのアイルランド人がこの地に送られたため、彼をこのように扱ったのには理由があったのだろう。

開拓を優先するために、彼を無下に扱うことなく丁重に扱うことでアイルランド人開拓者の機嫌を損なわないようにしたのかもしれない。

 

他にもたくさんの家があり、ここに住んでいた人たちが全員刑務所で生活していたわけではないことが分かる。

 

こちらは市庁舎。

 

説明書き。

 

実は、もともと精神疾患の患者用のケア施設として作られたのだが、実際にはほとんどその用途に使われなかった。

 

こちらは港の部分。

 

 

水は透明で、海藻が豊かに生えている。

ちなみに欧米人は魚は食べるが、海藻は食べない。

 

うなぎ?っぽいのがいた。

 

その対岸にポツンとある、孤島。

 

これはIsle of Death (死の島)と言われ、文字通り、墓以外に何もない島。

開拓は過酷な環境の中で行われた。

 

かと思えば、こんな華やかな部分もある。

英国分の庭園だが、気候が違うため生えている植物は少し南国っぽい。

 

次は隔離刑務所。

こんな注意書きがある。

 

「お静かに! ここで何があったのか、建物自身に語らせましょう。

ここでは、収監者には「話す権利」が与えられませんでした。看守もジェスチャーで会話をし、話し声が建物内で聞かれることはありませんでした。しかし、人が生活すれば物音がでます。しばしのあいだ口を閉じて耳を澄ましてください。あなたが今、耳にしている音は当時の収監者が聞いた音と同じものです。」

 

 

これが囚人の部屋。

狭く、簡易的なベッド。腰が痛くなりそう…。

 

ものすごく狭い部屋だが、1日1回の「運動」の時間があった。

決められたところを、決められたペースで、ひたすら1時間行進したのだとか。

これはかなりきつい。

 

いかがだっただろうか?

 

改めて、歴史というのはどの側面から見るかによって、全く違う話に見えてくるというのを再認識させられる。

 

イギリス人やオーストラリア人からしたら、こういう人たちのおかげで今のオーストラリアがある、という話になるだろうし、ここでは多くは語られていないが、原住民の人たちからしたらまったく違う話に見えただろう。

 

どの見方も見る側によって正解にも不正解にもなり得る。

 

それを理解した上で、自分の中で結論を出す前に、なるべく多くの側面から物事を見る配慮をする必要があると思う。

 

非常に興味深いオーストラリアの歴史に触れた1日だった。

 

つづく

 

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