世界一周259日目〜シドニー博物館でオーストラリア最終日を過ごす

こんにちはユウキです。

 

今日はオーストラリア編最終日。

 

シドニー博物館を訪れてみた。

 

ここではシドニーの様々な歴史に触れることができる。

 

オーストラリアは歴史自体がまだ比較的浅い。

(イギリス植民地化以前の原住民アボリジニの歴史は除く)

 

最初に”領有”を宣言したのは1788年。

アボリジニの領地だったこの地に、イギリス人が来て”領有”を宣言した際に、このような石をその”証拠”として、いたるところに配置していった。

 

オーストラリアは、イギリス国内での犯罪者たちの流刑地であり、彼らによって開拓されたことは以前の記事で書いた。

 

その中で、まず最初に建てられたのが、提督邸だった。

ちなみに現在、この博物館がある場所はこの提督邸の跡地だそうだ。

 

提督邸は、提督が交代するたびに増築を繰り返し大きくなっていった。(左→右)

 

初代総督のアーサー・フィリップ。

タスマニア島編の記事で書いた、ポート・アーサーの名前の由来にもなった人だ。

 

解説によると、アボリジニとの友好関係、作物の栽培など、多くのことに失敗に直面しながらも、最終的には、最初の5年で開拓の基礎を作ったとされている。

 

最終的に、一番大きくなった提督邸の模型がこちら。

最初のものに比べるとかなり大きい。

 

50年ほど過ぎると、オーストラリアは順調に発展し、様々な交易品がこの地を行き交うようになった。

現在の中国、インドネシア、インド、モーリシャス、ニュージーランド、アイルランド、南アフリカ、そしてイギリス本国など、巨大な貿易網が形成された。

 

その時の様々な交易品。

 

ちなみに、オーストラリアから輸出したのは、カンガルーの皮やアザラシの皮など、いかにもオーストラリアらしいもの。

 

しかし、この開拓の歴史の前には先住民という虐げられた存在がいた。

特に、ヨーロッパから持ち込まれた病原菌によって深刻な被害が出たそうだ。

 

1810-1822の約10年で、荒地に毛が生えた程度のシドニーが大規模な街へと変貌を遂げた。

 

その後、1840年代からウール(羊毛)貿易、1850年代からゴールドラッシュを経て順調に発展。

 

1870年代までには、徒歩で街の中心部へ辿り着くのが困難なほどに街は巨大化し、鉄道網が整備され始める。

 

そして1901年に独立。

1910年頃には、世界一整備された鉄道網を持つ世界都市にまで成長した。

 

しかし、ここまで発展した歴史の前に、虐げられた人々がいたことも忘れてはならない。

 

原住民アボリジニの存在である。

 

最初、原住民は開拓団を警戒し距離を取っていた。

初代提督のフィリップは、争いを最小限にとどめると同時に、現地にどのような資材があるか情報を聞き出すために、交流の機会を伺っていたが、1年後には物資が底を尽き、手段を選ばなくなった。

 

誘拐である。

 

最初の捕虜であるArabanooが天然痘によって死亡すると、次に2人の男が捕らえられた。

ワンガル族のベネロン(Bennelong)と、カディガル族のコリビー(Colebee)である。

 

コリビーは鉄の足かせをはめたまま、すぐに脱走したが、ベネロンは6ヶ月の間、提督邸に捕まっていた。

 

その後、驚くべき展開になった。

 

解放されたベネロンと脱走したコリビーが、今度は提督たちを招待したのだ。

クジラの背で宴を開き、ギフトの交換や友好的な話し合いのさなか…。

 

なんと、一人の男が槍で提督の肩を一突きにしたのだ。

 

これについての真相は今でもわかっていないらしい。

 

当時の原住民の掟に従い、提督の犯した誘拐や土地の侵入に対する「罪の償い」としての儀式であったという見方が有力らしい。

提督を殺すのではなく、この正統なプロセスを持って「水に流し」友好関係を結ぼうというわけだ。

実際、提督は当然怪我をしたものの、急所を外された形跡があり、致命傷ではなく、後遺症も残らないように突かれたとか。

提督自身もこの後、一切の報復行為を禁じ、これ以上の争いに発展しないようにした。

 

そして、ボートの上で改めて「和平」が結ばれたという。

 

しかし、この後、原住民として開拓者たちにどう対応するかが現実問題として浮上する。

 

民族の中の掟の外の存在である彼らの登場は予期せぬものであり、意見は分かれる。

しかし、開拓団がホークスバリー川付近まで進出し、森を焼き、切り開いて新たにコーンを作り出したことがきっかけになり争いが起き、戦争に発展する。

 

ある時、原住民がホークスバリー川で水汲みをし、そこに生えていたコーンを取ろうとしてとき、怒った開拓団の一人がその原住民を焼いてしまったのだった。

 

原住民は民族同士が団結し攻め込んだ。

しかし、これを機に開拓団側も和平方針から転換、全員撃ち殺し、賞金をかけるまでになった。

結果はご存知の通り、彼らは敗戦し、開拓がさらに進んでいく結果になった。

 

近年では、現存する原住民の歴史理解と、ここで語られている歴史の誤差を埋め、平和的に協力の道を歩むために、この歴史の見直しが重要な課題としてあがっている。

 

歴史というのは、様々な角度があり、どこから見るかで全く違うストーリーになり得る。

 

彼らが平和の道を歩めるよう、祈るばかりだ。

 

つづく

 

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