※この記事で起きたことは2019年のことです。
こんにちはユウキです。
さて、南島編も折り返し地点。
これから氷河でも見ながら西回りで北上して、そのまま北島へ…という予定だったが、帰国を余儀なくされ、急いで帰りのチケットを取ることになった。
話は昨日の夜に遡る。
山頂からの絶景の感動が冷めやらぬまま、次は氷河を目指してルートを考えている時だった。
母からのLINEが届き、「チョコが死んじゃった」とのこと。
チョコとは、実家の愛犬の名前で、僕が10代の頃にやってきたヨークシャーテリアである。
10年以上生きていたため、数年前から足を悪くしたり、色々ガタは来ていたのだが、ついにその時がやって来てしまった。
ちなみに、実家では母を中心に「犬中心の生活」と豪語するほどに溺愛していただけに、少し心配になり、LINEで国際電話をしてみた。(電話代ゼロ円なんて、便利な時代になったものだ)
電話口で泣き崩れる母。
近年では「ペットロス」なんていう言葉があるように、ペットをペットしてではなく、家族の一員として迎えた家庭では、人間が死ぬのと同じくらいの悲しみを受けるという。
酷い時には、鬱状態になってしまったり、日常生活に支障をきたすまでにショックを受ける、と言われる。
これは、ペットを飼っていた家庭でしか分かり得ない事だろうが、当事者たちからしてみたら間違いなく「身内の不幸」と同意義なのだ。
そんなわけで、犬がどうこうというより、残された家族の精神状態が心配になり、そばにいてあげるべきだろうと判断。
急遽、帰国することになったのである。
重ねていうが、この判断はペットを飼っていた家庭でしか分かり得ない事だろう。
むしろ、ペットを飼っていた家庭ですら意見が二分するかもしれない。
「人間ならまだしも、ペットが死んで帰国、ってクラファンとかでお金もらってるのに、真面目にやる気あるのか」などとバッシングを受けそうなものであるが、そんなコメントがSNS上に残されていたら今度はペット愛好家の方々の反論があり炎上しそうだ。
正直、僕自身、ペットが死んで仕事を中断する、というのが社会的にどの程度正当性を認められるのかに関しては不明だが、「正当性よりも実益・実害ベースに考えるべき」というのが僕の意見だ。
自分が当事者として、耐え難い悲しみがあるなら、誰がなんと言おうと、それは一時的に足を止め、支えてもらうべきだと思うし、また周りも出来るだけその当事者の目線に合わせて手を差し伸べるべきだと思う。
そんなわけで、今回は犬のためというよりも家族の心のケアのために帰国を決断した、という流れだ。
ちなみに、僕自身はというと、愛犬に親しみを持っていたにしても、母ほどの溺愛をしていたわけではない。
実家を出てからもう10年ほどになるし、その間は「家族」というより「親戚」くらいの頻度で会うことになっていたので、その分、精神的ダメージも少なかっただろう。
加えて言えば、もともと自分からペットを飼いたいと思う人間ではないし、事実、実家を出てからペットを飼ったことはない。
自分の意思とは無関係に、ある日唐突にやって来たチョコの登場は、僕の中では「例外的存在」だった。
さて、話を今日に戻そう。
「西回りで氷河ルート」は中止になり、国際空港のあるクライストチャーチを目指す最短ルートに変更。
途中、レイク・テカポで休憩して昼ごはん。
本当なら、景勝地レイク・テカポ周辺で一泊するのもいいかなと思っていた。
幸い、食材は大量に買い込んだ後だったので、少ない時間ではあったが、食事をしながら湖を眺めることができた。
ラベンダーの香りが風に乗ってやって来る。
急で疲れた心に癒し効果。
日本で見たラベンダーの何倍も大きかった。
湖に沿うように道が続く。
さすがに、1日で島のほぼ対岸のクライストチャーチにたどり着くことは厳しかったので、今日はアシュバートンという街のキャンプ場で一泊することにした。
帰国を決断したものの、「本当にこれで良かったのだろうか」と、頭のどこかで思い続けた今日1日。
「思い悩んでもしょうがない、やるだけのことはやってる」
そういい聞かせ、残されたわずかな時間を、思いっきり楽しんでやろう、と開き直って見た。
泊まったキャンプ場にテニスコートがあったので、なぜか思いっきりテニスした。雑念を振り払うように。
すごくいい汗かいて、隣のコートの人たちと仲良くなった。
この決断が「正解」だったと知るのは、もう少しあとの話である。
つづく